積丹町美国
美国の思い出
積丹の 美国はその名を冠す通り、とても美しい所である。
積丹の神威岬に初めて車で向かっている途中、ふと地図を見ると「宝島」「黄金岬」「美国」という面白い地名が目に入った。
名前だけでもなんともゴージャスなところである。さてどんなところかちょっと見てみようと車を降りた。その時はそこまで期待していなかったのだが、現地で見た景色は想像を上回るものであり、以來、すっかり気に入ってしまったのである。
黄金岬展望台から見える積丹ブルーと、美国のシンボル・宝島。神威岬に勝るとも劣らない、積丹の美しい景色のひとつがここにある。
積丹と美国
積丹の美国地区とは、積丹の町役場のあるところである。そのためここが積丹町の中心街であることは間違いないのだが、感覚的には積丹というと積丹岬と神威岬に囲まれた北向きの海岸のイメージがあり、「岬の湯しゃこたん」のあたりが積丹の中心と考えがちである。
というのも、歴史的に見ると「シャコタン場所」と「ビクニ場所」は別々の管轄になっており、シャコタン運上屋は積丹岬近くの日司地区にあった。やや紛らわしいところだが、現在「運上屋」の名を関する宿がある余別地区にあったのは「シャコタン運上屋出張所」である。
旧ビクニ場所の範囲にある海岸をここで紹介していきたい。それまで海岸沿いをずっと進んできた国道229号が大きく陸地に入り込むところであり、その海岸を見る機会はそれほどないかもしれない。このように国道が海岸を避けて大きく迂回する場所は、後志では他に小樽のオタモイ海岸や、余市の歌腰海岸などがある。この美国海岸もそれらとよく似た地形構造をしている。
美国地区の見どころ
黄金岬の積丹ブルー
美国漁港の端、黄金岬展望台から見るシャコタンブルーの青い海が美しい。晴れている夏の日にはぜひ寄っていきたいものである。
積丹町役場前の観光協会の駐車場に車を停めて、歩くこと500mほど。少し距離と坂があるので、足腰に不安がある人は難しいかもしれないが、遊歩道が整備されていて歩きやすい。岬の頂上には螺旋階段の展望台があって、宝島のある北湾方面を一望することができる。
正面見える尖った岩はビヤノ岬で、はるか向こうに見える立岩の岬はマッカ岬である。
ハートの宝島
この黄金岬から見ることができる島を「宝島」という。古くは「大黒島」と言ったが七福神の宝船のイメージから「宝島」としたのだろう。かつては島の東斜面に社があったようだが、今もあるかはわからない。地図や衛星写真で見るとハートの形をしているようである。ドローンでもなければハート型を確認することはできないが、岬の看板に衛星写真が載せられていた。
宝島の手前にある細長い島壁のような島は「弁天島」。またもっと手前にあるずんぐりした岩が「鴎島」で、その名の通り鴎がたくさん留まっているからつけられたのだろう。また岸沿いには「チャシナの剣」が立っているのも見える。
チャシナの剣
茶津の堤防の向こう側の岸に立っている立岩が「チャシナの剣」である。この地に住むチャシナという娘と、それを愛した若者に関する伝説で、若者の持っていた剣が岩になったと言われている。
黄金岬展望台から遠くに見ることもできるが、近くで見るなら茶津のほうに降りて「ソーラン節鰊場音頭のふるさとしゃこたん」の碑があるところから浜に入っていくことになる。ただし途中で波消しブロックなどを越える必要があるので、あまり安全ではない。また立岩のところまでは行くことができない。ここに海蝕洞があって、秘密基地の出口を思わせるような不思議な光景が拡がっている。
手掘りの茶津隧道
美国漁港と茶津の間には黄金岬の丘によって隔てたれており、茶津トンネルによって結ばれている。現行の茶津トンネルのすぐ隣に旧茶津隧道もあり、物置き場として使われているようだ。
それよりもさらに古いトンネルがある。黄金岬の真ん中あたりにあり、未だに地理院地図の地形図にも載っている。トンネルというよりは穴という感じで、おそらく住民が日常生活のために手掘りで穿ったものではないだろうか。あるいは天然の海蝕洞か。詳しい資料が見つからなかったため、いつ頃に掘られたものなのかはわからなかった。なお私有地にあるので、その点は注意されたい。また南側は柵で封鎖されている。
船澗洞窟遺跡
旧旧茶津隧道より少し南の漁港側に、船澗洞窟遺跡がある。
積丹町史によると、この洞窟に男女20数名の美国アイヌが住んでいたそうである。古平アイヌは何度か美国を攻めたが本拠地がわからず敗退していた。しかし斥候がこの洞窟を発見し、洞窟の上から岩石を落とし、入口に矢を放ったので、美国アイヌは全員閉じ込められて全滅したそうである。
非常に興味深い伝説だが、いつ頃の話なのだろうか。シャクシャインの時代には美国も古平も岩内アイヌの大王カンネクルマの勢力下にあったので、それより前のことかもしれない。
和人が居住するようになってから、洞窟内部で数体のミイラが見つかったらしい。その後、洞窟は倉庫に転用されたようだが、今は使われておらず不思議な雰囲気を放っている。
婦美地区の見どころ
浜婦美の廃集落
浜婦美は婦美町にかつて存在した集落で、現在はその痕跡をほとんど残さない廃集落となっている。かつては「山婦美」と「浜婦美」に分かれており、全盛期の浜婦美には60戸もの家があって、小学校の分校もあったそうだ。昭和40年に廃校し、過疎化が進み、最近まであったという番屋も解体されてすでにない。
残雪期に集落への道を下ってみた。想像以上に大変な道でこれを日常的に上り下りしていたのかというと当時の人の苦労が伺い知れる。道はほとんど廃道になっていて、かろうじて電柱後がぽつりぽつりと残っているのが目印になっている。特に一番下の浜に降りるところが完全に道が消失しており、危険を冒さなければ下ることができないようになっていた。安全を考えてそれ以上進むのはやめておいた。
江戸時代は「レブンコトマリ」と呼ばれていたところで、弘化3年にも2、3軒のニ八小屋があったそうだ。「尤も陸道なし」と松浦武四郎は書いている。
板切石の七ツ崎
黄金岬からおよそ4kmほど北西に、細長い崎がいくつも海に突き出ている地形がある。それはまるで板をいくつも並べたかのようなかたちで、これを「板切石の七ツ崎」と呼びたい。
断崖絶壁の下の隔絶された浜だが、これでもかつては「板切石」という集落が存在していたところである。またかつては一箇所だけ崖上からの降り口もあったようである。今は船かドローンで見るか、あるいは降雪期に放牧場の裏手に回って崖に近づくしかない。
この7つの崎にそれぞれ名前をつけてみることにした。いくつかは◯◯泊という名称がついていることがわかったので、それを元に周囲の崎に名前をつけている。
7つの崎のうち最も見どころがあるのが⑤番目の「チカパネ崎」で、大きな崩れの途中に真っ白な丘がくっついており、なんとも幻想的な姿をしている。チカパネ岬の独特な形は錦絵にも描かれている。
①イタギリ崎
かつて集落があったところ。岬の先端に「ポンマカシュマ」という大岩がくっついている。あの背のところに建物があったようだ。「イタギリイシ」は旧図に「エタランケウシ」とあり、 etu-ranke-us-i〈鼻が下方についている所〉の意味。
②カヤノカ崎
地形図で見ると一番大きい。カヤノカとは kaya-notka-oma-i で〈帆の形をしたもの〉の意味。恐竜の背のような形?
③ラモン崎
ラモン泊とはrawne-tomari の訛で〈深い泊〉の意味。ラモン崎の手前はすこし窪地になっている。なおラモン泊側からカヤノカ崎を見ると、マーライオンのような岩が見える。探してみよう。
④オロウェン崎
オロウェン泊とは oro-wen-tomari〈中が悪い泊〉の意味で、船着が悪かったのだろうか。このあたりは少しの高台になっており、ここからマッカ岬方面へや積丹岳への眺めがいい。
⑤チカパネ崎
火山灰の真っ白な斜面が特徴的な崎。大きくがけ崩れの地形が見える。火山灰が飛ぶためか、このあたりだけ雪も汚れていた。チカパネの意味は後述。
⑥タシコロ崎
細長い崎だが、割と先の方まで歩いていける。しかし危険なので注意。チカパネ崎をよく見ることができる。タシコロとは「冬のひどい寒さ」のこと。旧図に「タシコロヲルエトマリ」とある。taskor-or-un-tomari〈寒波の所にある泊〉。ここは寒かったのだろうか。
⑦ノッケウ崎
このあたりから美国海岸を一望できる。はるか遠くにはローソク岩も見える。この崎だけ目立った地名がなかったので迷ったが、ノッケウアンナイを二地区の沢と見て名付けた。notkew-un-nay〈顎にある沢〉。
ヘモイ泊のフレシマ
ビヤノ岬の向こう側、三角点:美矢ノ岬のあたりの浜を「ヘモイ泊」という。松浦山川図には「セモエウントマリ」とある。hemoy-un-tomari〈鱒のいる泊〉の意味。ここに「ヘモイシマ」「フレシマ」と呼ばれる細長い立岩が2つ並んでいる。
ここは完全に隔絶された場所になっているので、船かドローンでもなければ近づくことはできない。この写真はノッケウ崎から撮ることができた。
美国海岸の地名解
美国海岸の地名解を見ていこう。なお『永田地名解』ではなぜか美国郡がまるごとすっぽり飛ばされており、郡名の「ビクニ」以外は触れられていない。そのため定説がないものが多い。
美国川
- 【定説】pi-un-i〈小石のある処〉
- 【私案】pik-un-i〈砂利石のある処〉
美国とは美しい地名である。なにしろ景色が素晴らしいし、ピクニックにでも行きたくなる。ただ「美国」でGoogleMap検索をすると、アメリカにピンが飛んでしまうという思わぬ罠がある。「積丹町美国」と書かなければならないもどかしさ。
それはさておき、ビクニは意外にも難解地名となっている。旧図類では一貫して「ビクニ」もしくは「ヒクニ」。アイヌ語地名でここまでブレがないのは珍しいくらいで、それだけに付け入る隙がない。音からアルファベットに起こすと pik-un-i〈ピクのある処〉 になるだろう。ピクとは一体なんなんだろうか?
ビクニ
ヒクニは川の名にして、小石の有ることを以て号しもの也。此運上屋の有る地は本名ヲタネコロなるべし。ヲタは砂の夷言也。依て其地砂浜なり。
『竹四郎廻浦日記』松浦武四郎
松浦武四郎の聞き取りよると、ビクニは「小石のある処」の意味で美国川を表すのだそうだ。ついでにビクニ運上屋があったところは美国川東岸の海水浴場のあるところで、ヲタネコロというらしい。ota-nikor〈砂に囲まれた処〉くらいの意味か。
〈小石のある処〉なら pi-un-i である。ピウニがピクニになることはあるのだろうか。ウニ丼が好きなら尚更である。稀に誰かが訛って聞き取ることくらいはあるだろうか、10人中10人がビクニと聞いたのだからそれは考えにくい。 pi は〈小石〉だけれども、 pik という単語はどのアイヌ語辞典にも載っていないのである。
この “k” の音をなんとかひねり出そうとして、色々な試案が提示されてきた。pok-un-i〈陰のある処〉、pikew-un-i〈小粒の石のある処〉、piwka-un-i〈小石原のある処〉、pikke-un-i〈蛙のいる処〉……。どれも、あり得なくはないという感じだが、納得させるだけの説得力はない。散々悩んだのだが、これにはすっかり参ってしまった。
そしてついに見つけたのである。その史料は『イロハ番付 阿異野事葉』といって、文化年間にヨイチ運上屋請負人・林長左衛門がイロハ順にアイヌ語単語をまとめさせた手製の単語帳である。その中に「ざり石を/ピクン」とある。pik は道東方面ではあまり聞かれない、積丹周辺の方言なのかもしれない。
そう、やはり pik で〈小石/砂利石〉だったのだ。すなわち美国の由来は pik-un-i で〈砂利石のある処〉の意味。武四郎が聞き取った「小石が有ること」とも一致する。
この地形は美国川の河口にある。まわりは砂浜なのに、河口のところだけ少し粒の大きい小石が溜まっている。昔は橋などなかったから、この石を踏み越えて足を濡らし川を渡ったのだろう。もう少し近づいて見たかったのだが、あまりにカモメが多すぎて近づくのが躊躇われた。しかしながら今でも ビクニ が残っているというのは貴重なものである。
厚苫岬
- 【定説】at-tomari〈群来る泊〉
- 【支持】at-oma-i〈おひょう楡のある所〉
厚苫岬は古平丸山と正対し、海に鋭く突き出た岬で、厚苫トンネルがこれを貫いている。この厚苫岬が現在の積丹町と古平町の境界になっている。岬の方に注目しがちだが、旧図類では一貫して岬の西側の入江をアトマイとしており、現在の住所でも厚苫はそちら側になっている。
厚苫岬は「イカウシ」「ホンイカウシ」と呼ばれており、pon-ika-us-i〈小さく越える所〉の意味だろう。おそらく丸山岬のほうが poro-ika-us-i〈大きく越える所〉なのだと思う。
定説では at-tomari〈群来る泊〉。古平町側に「群来町」があることからいかにもという感じがするが、そちらは heroki-kar-us-i〈ニシンを採る所〉を訳したものである。at を「豊か」もしくは「群来」と訳すのは永田説から来たもので、他にも小樽市勝納の at-nay〈群来る川〉 や、於古発の oro-at〈そこで群来る〉にも見られるが、文法的に見てどうにも受け入れがたい。神恵内のヘルカ石などニシンに関する地名は日本海側に多く見られるが、いずれもヘロキカルシのかたちをベースとしている。
厚苫の旧図類での表記は「アトマイ」が多数を占め、「アツトマヱ」「アトマリ」も見える。音からすると at-oma-i〈おひょう楡のある所〉がぴったりくる。『伊能大図』では丸山岬のホヤ岩あたりが「アツホロシ」と呼ばれており、。これは at-horo-us-i〈おひょう楡を浸す所〉の意味だろう。おひょう楡はアイヌの衣装である厚司の材料で、楡皮を1週間位水に漬けておいて繊維を取り出しやすくする。やはりおひょう楡が厚苫のルーツになりそうだ。
ビヤノ岬
- 【私案】pir-ya〈渦の岸〉〈割れ石の岸〉
- 【諸説】pi-ya〈小石の岸〉
ビヤノ岬は黄金岬展望台から一番近くに見える岬。海に突き出た鼻のような先端が特徴的。三角点名で「美矢ノ岬」という漢字が当てられている。
旧図類では「ヒーヤ」ないし「ヒシヤ」。pi-ya〈小石の岸〉、pi-us-ya〈小石の多い岸〉、pis-ya〈浜の岸〉などの解釈が見られるが、どうにもしっくりこない。岸に小石が多いようにも見えない。また pis も ya も位置名詞なので、文法的に見てこういう使い方ができるかはちょっと怪しい。
このあたりの海中には顕著な柱状節理が見られ、まるで海底宮殿のようになっているそうだ。そこで pir-ya で〈渦の岸〉ないし〈割れ石の岸〉 という解を考えてみた。pir とは「傷/渦/陰」などを表す言葉である。柱状節理の岩を ”傷” と見ることもできるだろう。あるいは岬が大きく鉤爪形をしており、そこで海流が渦巻く、”渦”の岸という見方もできそうだ。十勝の広尾もかつては尖った岬と立岩があって、 pir-or〈渦の所〉であった。
チカパネ岬
- 【私案】cikap-un-i〈鳥のいる所〉
- 【私案】cikap-pa-ne-i〈鳥頭のような所〉
- 【諸説】teske-pa-un-i〈反り返った岬あるもの〉
チカバネ岬はどの地図にも載っていない岬名で、婦美の町営牧場の148m地点付近にある。「テカハアニ」「ツカハネ」「チカハウニ」「チカホニ」「チカハネ」などと旧記の表記が安定しない。
唯一、岬名として記している歴検図をもとに「チカパネ岬」と呼ぶことにした。普通に考えると cikap-un-i〈鳥のいる所〉の意味だろう。写真には映っていないが、このあたりを鳶が飛び回っていた。旭川に近文という有名なコタンがあるが、そこもチカプニで鳥が留まる岩に由来している。
あるいは岬の先端を鳥の頭に見立てて、cikap-pa-an〈鳥頭がある〉 ないし cikap-pa-ne-i〈鳥頭のような所〉という解釈も考えてみたが、面白地名解にとどめておきたい。
ラヲベ岬
- 【私案】rawot-pe〈低みにつく所〉
- 【諸説】ra-o-pe〈低く付いているもの〉
ラヲベ岬は浜婦美集落の南東にあり、野塚婦美線が90度カーブしている先にある岬。垂直に切り立った崖が特徴で、南側には白い崩落面が見える。
DBアイヌ語地名では ra-o-pe〈低く付いているもの〉 になっているが、母音の後ろは pe ではなく p になるはずなので、それなら ra-o-p である。それに100mの落差がある垂直な崖であり ”低い” とは言い難い。
正しくは rawot-pe で〈低みにつく所〉ないし〈少し沈む所〉だろう。この場合は海の部分が”低み”であるようだ。
マッカ岬
- 【支持】maka〈二股〉
- 【諸説】mak-ka〈後ろの上〉
マッカ岬は幌武意集落の東側にあり、集落のシンボルのように目立っている。また遠くは小樽の蘭島から見え、この岬の先端に大岩がそびえているのが見える。
マッカと名のつく岬は、この美国海岸の他、神恵内の珊内に、また増毛のほうにもある。いずれも全て共通して、岬の先端に鋭く突き出た小山のような大岩がくっついているという特徴がある。
またこの美国に関しては「ポロマカシュマ」「ポンマカシュマ」と大小2つのマッカが上げられており、大きいほうがこの幌武意に、小さいほうが板切石にある。
音から mak-ka〈後ろの上〉 と当てはめた解釈もあるが、mak も ka も位置名詞なので難しい。文法的にクリアにするなら maki-ka〈その後ろの上〉ないし mak-un-kasi〈後ろにある上の所〉 となるだろか。それにしてもこの地形を適切に表現しているかというと微妙な気がする。
マッカとは東北のマタギ言葉で「股木」を表す言葉である。こちらのほうがぴったりくる印象がある。マッカ岬は江戸時代の文献には見られず、明治になって初めて見られる。この地に移住してきた東北出身者が名付けたのかもしれない。
なお江別のことを古い文献で「イベチマタ」という。i-pet-mata〈その川の二股〉で、石狩川から夕張川(現・千歳川)が二股に分かれているところを言う。また釧路の難解地名のひとつ「又飯時」も mata-etok〈二股の先端〉と訳すことができる(マタイトキとポンマタイトキという2つの岬があり、釧路と昆布森村の境界になっていた)。これらからすると、mata ないし maka で「二股」というのは東北語にルーツを持つ共通語彙なのかもしれない。
その他の地名
小泊(ポントマリ)
- 【定説】pon-tomari〈小さな泊〉
小泊はポントマリを和訳した字名。美国川の東側。
茶津(チャツナイ)
- 【定説】chasi-nay〈砦の沢〉
茶津はチャシナイからきた字名。黄金岬の西側。なぜか地名の「シ」は「ツ」によく化ける。なお ツ(tsu) という音はアイヌ語には存在しない。黄金岬のほうはチャシコツ。岬の上は見晴らしが良く防衛に適していたのだろう。
滝の下(チャラツナイ)
- 【定説】charse-nay〈滑り滝〉
滝の下は茶津の向こう側にある崖下の浜で、歩いていくのは難しい。武四郎曰く高さ3丈幅3尺くらいの滝だそうである。凍っていて水は流れていなかったが、一応それらしいものは遠くに見えた。
婦美(フミ)
- 【定説】humpe-oma-i〈クジラのいる所〉
婦美はフンベマイから音を切り出した字名。浜婦美と山婦美があり、浜婦美の方は廃集落となって久しい。このあたりにクジラが漂着したとも、浜婦美から見たマッカ岬がクジラの姿に似ているからともいう。フンベマイがもともと示す位置は、座標としてはマッカ岬の先端になっている。
幌武意(ホロムイ)
- 【定説】poro-moy〈大きな湾〉
幌武意は島武意と間違えやすいが、現役の漁港がある小さな集落である。このように背後の崖からの道しかなく、左右が道路で繋がれていない崖下の集落はかつては西蝦夷中にあったが、今はこの幌武意しか残っていない。西蝦夷の原風景を残す貴重な集落となっている。
幌武意や島武意、女郎子岩、ニマンポーの硫黄山などについては以下の記事で紹介しているので、あわせて読んでいただければ幸いである。
コメント