小樽の地名の由来 ― 本当にオタオルナイだったか

地名の由来

歴史の残る小樽の町

小樽は運河と港の街である。

小樽は札幌の隣にあり、明治から戦前にかけて商港として発展してきた。今はすっかり観光地となり、流通の港としての役割は石狩湾新港と新千歳空港に取って代わられてしまったが、昔ながらの石造り倉庫の街並みが当時の面影を残している。

小樽運河

小樽という地名は日本語の「樽」とはあまり関係がなく、「オタルナイ」というアイヌ語に由来している。一説によるとオタ・オル・ナイ(砂浜の中の川)と呼ばれていたのだという。しかし本当にそうなのだろうか。

この記事では小樽の地名の由来と、この地名の表す場所を探していこう。

南樽が元々の小樽

小樽の中心地というと、何処を思い浮かべるだろうか。

小樽駅前の稲穂町、小樽運河の色内町、あるいは小樽市役所のある花園町だろうか。しかし明治前半は稲穂町や花園町はまだ開拓されていない原野であった。そして稲穂町と色内町は「高島郡色内村」であった。小樽駅周辺のエリアはそもそも小樽ではなかったのである。

幕末から明治初頭にかけての高島と小樽内の境界

江戸時代のタカシマ領とオタルナイ領は小樽運河南端の於古発川を境に分かれていた。松前藩の場所請負制度の元で、タカシマは西川家、オタルナイは岡田家が漁業と貿易を請け負っていた。現在の小樽中心地はこのように真っ二つに分かれていたのである。

現在、南樽と呼ばれているエリア。堺町、入船町、住吉町、信香町など、このあたりがかつての小樽の中心地だったのである。とりわけ現在の堺町郵便局のところには「オタルナイ運上屋跡」が、信香町の臨港線沿いには「オタルナイ役所跡」がある。前者の運上屋が江戸時代後期の中心地で、後者の役所が明治時代前半の小樽の行政上の中心地といえる。

オタルナイ運上屋跡

2つの場所の背後にはちょうどJRの「南小樽駅」があり、この南小樽こそが小樽であったと言えるだろう。その一例として、明治38年頃は現在の小樽駅が「高島駅」、南小樽駅が「小樽駅」と呼ばれていたこともある。その後、高島駅は「中央小樽駅」となり、やがて「小樽駅」となった。このとき南樽は小樽という地名をあちらに譲ったのである。

オタルナイはどこにあったか

最古の小樽の記録

オタルナイという地名が最初に文献に出てくるのは、知る限りでは寛文10(1670)年に記された『狄蜂起集書』である。この書の『狄蜂起ニ付松前より上下狄地迄所付覚』という項目の中に「おたる内」とある。

また関連する文献である『松前より上蝦夷地迄所付』には「おとうない」の文字が見える。これは寛文9(1669)年とも言われ、これが最古の小樽の記録かもしれない。

おとうない(小樽)、しくずし(祝津)、おしよろ(忍路)の地名が見える。『松前より上蝦夷地迄所付』

次は、元禄13(1700)年の『松前島郷帳』、通称『元禄郷帳』の記述である。この史料は蝦夷地の村の名前が箇条書きにされている。

一 よゐち(余市)

一 しくずし(祝津)

一 かつち内(勝納)

おたる内(小樽内)

一 はつしやふ(発寒)

一 しのろ(篠路)

一 しやつほろ(札幌)

一 いしかり(石狩)

『松前島郷帳』元禄13年 (括弧内は筆者加筆)

現在の地名としても残っているものばかりで、いずれも聞き覚えのある地名ではないかと思う。概ね西から東に辿るように順番に書いてある。これより前の部分は岩内・積丹・古平などを通っており、後ろは厚田・増毛・苫前などが続く。

オタルナイは離れている

しかしこの順番、ひとつおかしい所があるのに気がつくだろうか。

おたる内」が勝納と発寒の間に出てくる。もし小樽内が南小樽の入船地区であったとしたら、祝津と勝納の間にあるはずだ。そして南樽と勝納は極めて近いエリアであり、これが別々の村として書かれているとしたらやや奇妙である。

地図でも見てみよう。下は文化4年頃の地図である。

『蝦夷地図』今井寛次郎(文化4)に加筆

高島・手宮の位置に対し、ヲタルナイはかなり東に離れている。地図にある「ベツフツ」とは現在の石狩元町、番屋の湯があるあたりなので、ヲタルナイがそうとう石狩寄りの位置にあるのがわかるだろう。

オタルナイは新川の場所に

もう少し詳しい地図で見てみよう。

『東西蝦夷山川地理取調図』松浦武四郎
地理院地図に現在の地名を加筆

あの松浦武四郎が描いた『東西蝦夷山川地理取調図』である。縮尺は正確ではないとはいえ、細かい地名がびっしりと書き込まれているのが特徴だ。

これを見ると「ヲタルナイ」は「ホンナイ(銭函三丁目のポンナイ川)」と「フンベヲマイ(石狩湾新港)」のほぼ中間に位置し、現在の「新川」に相当する場所のあったようだ。川の上流には「ホシホキ(星置)」があるのにも注目しておきたい。

またカツナイの西には「クツタルウシ」があり、これが今の南樽に相当する。南樽の古名は〈クッタルウシkuttar-usi「イタドリ多き処」〉で、元々はここもヲタルナイではなかったのだ。

消えたオタルナイ川

しかし「新川」とはその名が指すように、開拓使が入ってから新しく引かれた人工河川のため、新川イコール小樽内川ということはできない。このあたり、複雑な河川の変化があったようである。

現在の地図には「小樽内川」という川は無い。いや、あることにはあるのだが、それは定山渓のダムがある方の川で、ここで言うオタルナイ川とはまた別の川である。元々のオタルナイ川の流路を探してみよう。

『北海道実測切図 1/20万』(北海道庁)青線を加筆
地理院地図に青字で加筆

上の『道庁実測説図』は明治19年頃から10年かけて測量されたもので、川筋までが正確に描かれた地図としては、最も古いものだ。新川が引かれたのが明治20年頃なので、ちょうど新川ができるかできないかの頃である。新川の川筋に道路ができているのが地図で確認できる。

「オタナイ」すなわち小樽内川の河口近くには「キヨ川」「ニゴリ川」「シロイ川」の三つの支流が見られ、そのうち「キヨ川」が本流で、星置のあたりからおおきく蛇行して流れてきている。このうち「清川」と「濁川」は現存している。

現在の星置川は「ほしみ駅」のあたりでまっすぐ北に流れ落ちているが、これは人工的に流路を変えたもので、もともとは星置川は新川の河口付近で落ちていたようだ。

かつての小樽内川は上流は星置川、下流は清川で、新川とはほぼ直角に流れ落ち、新川河口よりわずかに東側で海に落ちていたようだ。そしてこの川がちょうど、小樽市と札幌市の境界になっていることに注目してほしい。石狩湾新港ができるまで、小樽と札幌・石狩との境界は、江戸時代からこの小樽内川を基準に引かれていたのだ。

オタネ沼-オタルナイ川のかつての流路跡

銭函四丁目にはかつて海水浴場があり「オタネ浜」と呼んでいた。そしてここに「オタネ沼」とよばれる小さな沼がある。これこそが小樽内川の名残であり、この沼のほとりには「オタナイ発祥の地」の石碑がある。

ここがオタルナイの最初の位置だったのだ。

引っ越したオタルナイ

オタルナイの地名は、かつては銭函四丁目の新川河口付近を指していたが、いつしか南小樽に移動するようになった。その経緯はいくつかの文献が記録している。

ヲタルナイ

この処はクツタルウシが本名にして其のヲタルナイは、これより三里あまりも東北の方に当たりてその地名あり。もはや石狩領の境なり。

『蝦夷日誌』松浦武四郎(弘化三年)

松浦武四郎によると、やはり南樽はクッタルウシが本名で、オタルナイは三里あまりも北東の石狩領の境にあると言っている。

その昔は今のセニハコという処、ヲタシュツと申す処なるが、その処に運上屋あり。

追々相開け今のクッタルウシへ引き申候。当時漁事相定り申候。

『東西蝦夷場所境調書』松浦武四郎

元々、運上屋は銭函にあったが、漁の都合でクッタルウシ(南樽)に引っ越したようだ。

小樽郡

松前藩、オタナイの支流マサラカオマプに住居するアイヌを今の小樽郡入船町の内字クッタルシの地に移して小樽場所を置きたるを初とす。

『蝦夷語地名解』永田方正

永田方正によると、銭函にすむアイヌの人たちと一緒に引っ越したらしい。なおマサラカオマプとは、現在のほしみ駅の西側、星野町や銭函三丁目の工業団地あたりを指すと思われる。

小樽内川では主に鮭を取っていたが、それほど大漁というわけではなかった。西にもっと良いニシンの漁場があるということで、運上屋ごと銭函から南樽に引っ越したようだ。

経済的には札幌と結び付きが強い銭函が、今も小樽市に含まれているのはこの時の引っ越しが関係しているようである。

オタルナイの意味

オタルナイの場所がわかったので、次はオタルナイの由来について迫ってみよう。

オタルナイの由来に関しては、大きく分けて「オタルーナイ」説と「オタオルナイ」説がある。他にも「オタナイ」説などもあるが、ここからわかるのは、ともかく「」がなかなかの悩ましいポイントだということである。逆に言えば「オタ」と「ナイ」ははっきりしており、ここに関してはほぼ異論がない。

小樽内川河口付近

オタota〉とは「砂」を意味するアイヌ語である。

小樽市民にとって一番身近なのはオタモイで、これは〈オタモイota-moy「砂の入江」〉という意味だ。他にも歌棄〈オタシュツota-sut「砂浜の端」〉や大楽毛〈オタノシケota-noske「砂浜の中央」〉といった地名が道内各地にある。

小樽港のあたりは岩の多い浜だった。しかし元々のオタルナイが銭函のドリームビーチのあたりだったとすると、「砂の」というのはぴったりくる単語である。

ナイnay〉とは「川」を意味するアイヌ語である。

「ナイ」は最も有名なアイヌ語のひとつであり、小樽市内だけでも色内、桃内、勝納などたくさんあり、いずれも川が流れ落ちている。オタルナイもまた川の名称だったことがわかる。

「砂の道の川」説

『西蝦夷日誌』松浦武四郎

ヲタルナイ。訳して沙路沢ヲタルーナイにして、その地は石狩境の川なり。

『西蝦夷日誌』松浦武四郎

ヲタルナイはヲタは沙にして、、ナイは沢。沙路沢と訳すなり

『蝦夷地道名国名郡名之義申上候書付』松浦武四郎

道を意味する〈ルru〉を間に入れたのが松浦武四郎のオタルーナイ説である。この説は明治2年にできたばかりの北海道開拓使にも提出されており、地名制定のための礎となった。

〈ルru〉を使う他の例として、留寿都〈ルスツru-sut「道の根本」〉、留辺蘂〈ルベシベru-pes-pe「道に沿う処」〉、〈ルーチシru-cis「峠道」〉などがある。ルは伸ばしたり伸ばさなかったりする。色内も一説によると〈イルオナイi-ru-o-nay「熊の道の沢」〉であり、ここでも〈ルru〉が使われている(ただしこれには異論がある)。

松浦武四郎よりも70年前の寛政元年には、すでにこの説が唱えられていたようである。

ヲタは砂といふ詞にして、砂ざきなどのありけるにや。おく蝦夷国には砂路沢ヲタルナヰといふコタンもありけり

蝦夷喧辞えみしのさえぎ』菅江真澄

菅江真澄は小樽には直接は来ていないが、瀬棚の太田(オオタ)に来た時にその地名の由来を尋ね、この奥にもオタルナイという村があるという話を聞いたようだ。

他に明治22年の白野夏雲が書いた『蝦夷地名録』でも「砂ノ路」とあり、この説がとられている。彼もアイヌから直接聞き出した情報に基づいている。

江戸時代から幕末にかけて、複数の人物がこの説を挙げており、よってこれが最も有力な説だと思われるが、なぜか昨今はあまりこの説が取られていないようである。アイヌ語を学んでいると、「砂・道・川」という単純に名詞を三つ並べた形に、どうにも拙い印象を受けるのかもしれない。他の説も見てみよう。

「砂の溶ける川」説

『蝦夷地名考并里程記』上原熊次郎

夷語ヲタとは砂の事、ルーとは解ける又は道などと申事、ナイは沢の事にて、すなわち、砂の解ける小川と訳す。

この川、常に砂の解け流れる故この名ありといふ。

『蝦夷地名考并里程記』上原熊次郎

松浦武四郎よりもおよそ30年ほど前、アイヌ語通詞の上原は「砂の解ける小川」と訳した。

アルファベット表記にすると〈オタルーナイota-ru-nay「砂の溶ける川」〉で、〈ルru〉は「溶ける」という意味も持つ。田村辞典によると「雪が溶ける」とか「塩などが水に溶ける」などに使われる自動詞である。「砂・道・川」と名詞を並べた前説と比べてスマートで、よりアイヌ語地名らしい印象を受ける。ただし、ルーは道とも訳せることを上記の地名考でも触れている。

「砂川」説

一方、明治時代に入り、永田方正はなかなか衝撃的なことを述べている。

Ota nai オタナイ 沙川

石狩郡と小樽郡の境にある川なり。和人オタルナイと云うは非なり。当地名解にオタルナイは沙路川或いは沙解る川とあるは最も誤る

オタナイの誤りなり。元禄郷帳既にオタルナイに作る。その誤謬の久しき殆どオタナイの原名をして沙中に埋没せしむ危いなり

『蝦夷語地名解』永田方正

なんと永田方正は、オタルナイと呼ぶのは誤りだと言い切ってしまっている。元禄郷帳の時点で既に間違っていたというのだ。真ん中に音がないオタナイが正しいのだという。

ただし江戸時代のどの史料や地図を見ても「オタルナイ」「オタンナイ」「オタルンナイ」などの表記のブレはあれど、真ん中の音を省いている例はほとんど見られない。明治時代になってやっと「オタナイ」の表記が現れ始める。永田方正のこの説は、残念ながら裏付け証拠となるものが見いだせない。

「砂浜の中の川」説

小樽という地名は、アイヌ語でオタ・オル・ナイ(砂浜の中の川の意)と呼ばれたことに由来します。

小樽市指定歴史的建造物 ― 小樽市公式ホームページ

「おたる」の地名は、アイヌ語の「オタ・オㇽ・ナイ」(砂浜の中の川)に由来しているが…

「小樽市」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2022年12月30日 (金) 07:40

事実上の定説となっているのがこの〈オタオルナイota-or-nay「砂浜の中の川」〉説である。Wikipedia、小樽市公式ホームページ、小樽市史、その他様々な書籍などで、最近はほぼこの説が使われているようだ。

〈オロor〉もしくは〈オロoro〉は「中/~の所」を表す単語で、例えば忍路〈ウシヨロus-or「入江の中」〉、オロフレ〈oro-fure-nay「(水の)中が赤い川」〉などがある。

「オタオロナイ」で「砂の中の川」というわけである。文法的にはたしかに正しいと思うが、ここから「オタルナイ」に変化したと言える理由がわからない。山田秀三先生がそのあたりの発音について解説していた。

ota-or-naiだと、地名として続けて呼べばアイヌ語の発音上オタオンナイになる。元禄郷帳の昔からのオタルナイを考えると、少し考えてみたくなる点がある。

オタオンナイは母音が一つ略されてオタンナイともなりそうだ。その音が少しつまるとオタナイとなる。現地の人の「おたね」はそれか?

『北海道の地名』山田秀三

なるほど、nの前にorが来ると、オロがオンの音になるらしい。そこから音を削っていけばたしかにオタンナイにはなる。しかしオタルナイにはどうにもならなそうだ。

それがどうしてオタルナイになっただろうか。

なんだが気にかかるので、病院にいた知里さんを訪ね、意見を求めた。知里さんも頭をひねって、「どうも変だ、発音上rの音がでる川名であったらしいですね」と話された。

地名を論じあった最後の頃の思い出である。

『北海道の川の名』山田秀三

山田先生もそこを疑問に思われたようだ。知里さんというのは知里真志保氏でのことであり、「地名アイヌ語小辞典」を記したアイヌ民族にルーツを持つ言語学者である。やはり知里博士もオタオルナイ説には違和感を覚えていたようだ。

江戸時代の発音

江戸時代にオタルナイがなんと呼ばれていたか、改めて当時の文献を調査してみよう。

江戸時代の文献におけるオタルナイの表記
オタルナイ表記の割合

このようにおよそ8割の文献が、「ヲタルナイ」もしくはそれとほぼ同等の発音を記録している。「ヲタンナイ」「ヲタルンナイ」のように「ン」の音を入れているものが数件見られるが、逆に省いて「オタナイ」としているのは『大日本接壌三国之全図』だけだ。

少なくともわかることは、江戸時代に「オタオルナイ」と呼ばれた記録は一つもなく、それが訛ったとしても音が「オタルナイ」に変化するのはなかなか難しいということである。

オタオルナイ説はいつから唱えられるようになったか

オタオルナイの初出を探してみると、昭和25年版の『北海道駅名の起源』に当たった。

アイヌ語「オタルナイ」即ち「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)から転訛したもので、現在の石狩町と小樽市の境にあるオタルナイ川をさしてものである。

『北海道駅名の起源』昭和25年版

駅名起源は昭和4年に初版が発刊されたが、この昭和25年版で大きく内容が刷新されている。「高倉新一郎・知里真志保・更科源蔵」らの三人の学者が編集に加わり、より学術的な内容になったようだ。このうち知里真志保氏はオタオルナイ説に疑問を呈していたはずである。どうにもこれは更科源蔵先生の説のような気がする。そう思い、更科氏の地名解を開いてみた。

地名の起源はオタ・オル・ナイ(砂浜の中の川)であり、…

『アイヌ語地名解』更科源蔵

やはり更科源蔵氏のアイヌ語地名解に載っていた。〈オタota〉を「砂」ではなく「砂浜」と訳したのも特徴的であり、地名解が完全に一致している。氏は駅名起源の編纂にも加わっているので、これは更科先生の論である可能性が高い。

『小樽市史』でも、昭和18年版では出てこないのに、昭和33年版では「オタ・オル・ナイ(砂浜の中の川)」が出てきている。戦後、昭和25年を境にしてオタオルナイ説が一気に広まったようだ。

ここまで出てきた地名解を時系列に整理してみよう。

主要な小樽内の地名考

明らかに昭和25年から流れが変わっている。それまで出てきていなかった「オタ・オル・ナイ」説が、戦後になって初めて出現し、それが定説として広まったようだ。

上半分の菅江真澄からバチェラー氏までは、直接当時のアイヌから聞き取りをしているが、下半分はその経験があまりないアイヌ語学者である。オタオルナイという形は学者としてはたしかにスマートな解釈だが、当時のアイヌが本当にそう発音したかどうかはわからない。よってこの説の採用には慎重にならざるを得ない。

他の類例

オタルナイと似たような地名が道内に他にあるか探してみよう。留萌市の浜中運動公園を流れる川として、「オタルマタセツ川」がある。

ヲタルヲマセタベツ(小川)、譯て沙路有犬川の義。往古ヲタベツより神の遣しめの犬出來り、此沙地に跡をつけて、此川よりまた山に人し故號ると

『西蝦夷日誌』松浦武四郎

〈オタルオマセタペツota-ru-oma-seta-pet「砂の道のある犬川」〉という意味のようだ。

また苫小牧のウトナイ湖の西側に「オタルマップ川」がある。

Otaromap  オタロ マㇷ゚  沙路アル處

『蝦夷語地名解』永田方正

オタルナイは誤りであると言っていた永田方正も、ここでは”沙路”と言っている。〈オタルオマプota-ru-oma-p「砂の道のある処」〉となるだろうか。

なお樽前も〈オタルオマイota-ru-oma-i「砂の道のある処」〉と訳されることもあるが、樽前ガローのことを考えると〈タオロマイtaor-oma-i「川岸の高い処」〉の説のほうがしっくりくるので、これはカウントしない。

いずれにせよ、〈オタルota-ru「砂道」〉とする類例はいくつか見られ、そこまで珍しい表現でもないようだ。

「道」はどこにあったか

これらを見る限り、〈オタルナイota-ru-nay「砂の道の川」〉が有力のように感じる。ただし「溶ける」説も否定はできない。念のため、〈ru〉の解釈をもう少し進めてみよう。

ル【ru】

①道、道路、足跡

②流域:川の流れにそっている地域.降った雨がその川に流れ込む地域

『萱野辞典』

①【自動】とける、 (塩などが水に)溶ける、 (氷などが)融ける。

②【名】[概](所は ruwe(he) ルウェ(ヘ)) ①跡、 道。

『田村辞典』

ru, -we/ -ye /-he る(るー)

①足跡、跡、道。(”足跡”が”道”の意になっているのは、道はもと踏み分け道から発達したことを示すのであろう。

②便所③頭髪

【第二種形式名詞】形式化して「ありさま」の意をあらはす。

『知里辞典』

ということで、元々は「足跡」、そこから発展して「踏み分け道」を表したらしい。

オタルナイに道はあったのだろうか。まず銭函から石狩元町までの約20km、ひたすら砂浜を歩く必要があった。松浦武四郎は少なくとも4回はこの区間を歩いていると思われる。小樽内川河口には小休所が設けられ、旅人が休めるように便宜が図られた。

そしてもう一つ、小樽内川から熊碓(現・船浜町)までの山越道があったことが示唆されている。

クマウシナイ またここより山越、風波荒き時はヲタルナイへ行道あるよしなり

ヲタルナイ ここより又クマウシへ山越道有るなり。

『蝦夷日誌』松浦武四郎(弘化三年)

安政4年に銭函から熊碓までの「小樽内山道」が開かれるが、それより以前からアイヌたちはここから山越をしていったようだ。

熊碓から小樽内へのアイヌの山越道(ルート推定)
安政年間に和人が開いた山越道

また松浦武四郎は、発寒アイヌに雪が積もっているときはまっすぐ海の方まで歩いていくといいと教わっている。発寒集落から最も近い海岸がこのあたりであり、アイヌたちはこの「道」のルートを知っていたのかもしれない。これも後に「札幌越新道」として和人に開拓されている。

星置集落に在住した役人は、小樽内川沿いに草を刈って道を整備したという記録もある。

まさに道として重要な場所であった可能性がある。よって、〈ルru〉は「道」を意味していたとしても不思議ではない。

オタウンナイの可能性

もしかすると〈オタウンナイota-un-nay「砂に入る川」〉ではないだろうか。ここまで考察してきたところで、ひとつこの可能性が思い浮かんできた。

新川河口付近に見られる海岸砂丘

ドリームビーチからオタネ浜にかけての海岸は、砂丘が何キロにも渡って発達しており、旧オタルナイ川はそれを割るような形で注いでいる。まさに「砂丘に入っていく川」である。〈オタota「砂」〉とはこの砂丘のことを指していたのかもしれない。旧オタルナイが河口付近で大きくカーブしているのは、この砂丘に遮られているからである。

旧オタルナイ川河口付近の地形とコツウンナイ

アイヌは川を河口から見て、上流に遡るようにして考える。オタルナイ川を少し遡ると〈コツウンナイkot-un-nay「窪地に入る川」〉がある。これは現在の濁川と思われ、現在下水処理場があるあたりには、かつて沼地が広がっていた。オタウンナイ(砂丘に入る川)とコツウンナイ(窪地に入る川)は文法的にはよく似ている。

『伊能図』に見える「ヲタルンナイ川」

和人がまだ少なかった古い文化年間の文献では「ヲタンナイ」が多く見られること。間宮林蔵・伊能忠敬といった著名な地図作者が「ヲタルンナイ」と書いていること。小樽の初出である寛文9年の文献で「オトウナイ」とあること。永田方正がルの存在を否定して「オタナイ」としたこと。

これら全ての表記のブレを全て網羅できる一つの答えとして、元々は「オタウンナイ」だったと考えるのはどうだろうか。オタウンナイが少しだけ縮まってオタルナイ。オタオロナイよりはだいぶ近そうだ。なお浜田さんは〈オタオルンナイota-or-un-nay〉を挙げておられた。

類例として、オタウンナイという地名は阿寒湖に注ぐ小さな川にも見られる(現河川名は「ウグイ川」)。ここも河口付近に砂浜が見られる地形になっている。

或いはこれに〈ルru〉を加えた〈オタルンナイota-ru-un-nay「砂道に入る川」〉かもしれない。

天保年間(1830年代)以降の記録では音のブレがほぼなくなり「オタルナイ」で統一されている。これはヲタルナイ場所が小樽郡全域に漁場を拡げた時期とある程度被っている(銭函に漁場を開いたのが1838年)。この頃には地名としてのオタルナイが定着していたのだろう。

オタオルナイと呼ぶのは間違いか

オタルナイの由来は「砂の道の川」「砂の溶ける川」「砂に入る川」「砂浜の中の川」、いずれにせよ「砂浜にある川」であることには変わらない。細かい差異はともかくとして、どれであっても意味としての解釈はそれほど違わないと言っていいかもしれない。地名の由来とは、当事者の証言が残っているのでない限り100%の答えを得るのが難しいものだ。一見真っ当そうな地名解があったとしても、今となってはだれも正解だと証明することはできない。色々な説があって良いと思う。

だが「オタオルナイ」という発音についてはどうだろう。当時のアイヌが、あるいはそこに渡った和人がそのように発音したという記録はひとつもない。

例えるなら「兵庫(ひょうご)という地名は武器庫に由来するのだから、『へいこ』と呼ぶのが本来の呼び方であった。」と唱えるのはどう感じるだろうか。実際に過去にそう呼んだ記録があるのでない限り、滑稽な話に思えるだろう。「小樽はオタオルナイと呼ばれていた」と唱えるのはこれと同程度の過ちになりかねない。

よって小樽の地名の由来を説明するときは、下のような表現が推奨できる。

誤り小樽は、アイヌ語でオタ・オル・ナイ(砂浜の中の川)と呼ばれていた。
許容小樽はかつてオタルナイと呼ばれており、アイヌ語で「砂浜の中の川」の意味である。
詳細小樽はアイヌ語に由来し、江戸時代にはオタルナイ(又はオタルンナイなど)と呼ばれていた。
伝統的には「砂路川」と訳されてきたが、「砂浜の中の川」と解釈されることもある。
推奨できる小樽の地名の由来

まとめ

ここまで考えてきたことをまとめてみよう。

  • 南樽がもともとは小樽の中心地だった
  • オタルナイ川は銭函四丁目の新川河口近くに流れ落ちていた
  • オタオルナイという発音がされたという江戸時代の記録はない
  • 江戸時代の寛政年間には「砂路沢」説が既に出ていた
  • オタオルナイ説は戦後になって急に広まった
オタナイ発祥の地

小樽は歴史の街として知られる。しかしその多くは明治から戦前にかけての歴史で、江戸時代についてはあまり触れられることが少ない。引き続き江戸時代のオタルナイに注目して、その魅力を発見していきたい。

コメント

  1. しおやん より:

    スゴイ!!
    オタオルナイってなんかヘンだよ、だいたい砂浜ってどこだよ?って思ってましたが、江戸時代の文献まで遡り、古地図、研究史、現地調査まで含めての総合的な解釈に脱帽。
    とても納得できました。
    当方、本年、虎杖浜の隣の知里さんの故郷から小樽に仕事で引越して来て、今、小樽案内人テキストブックで小樽について勉強しています(ばあちゃんが新冠アイヌ)。こういう情報に当たれて嬉しいです。

    • zenibako_trek より:

      ありがとうございます!
      おたる案内人の試験はなかなか難しいですよね~。自分も勉強しております。
      占冠の方にルーツがあるのですね!胆振日高のあたりは文化がたくさん残っているのでとても興味があります